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藤井歯科医院

多くの先生方との出会い

(ここからは、長くなりそうなので、お読みになるのは適当にお願いします。) 歯を守っていく大切さを、歯周病よりその根本から岡本浩先生に、お教えいただきました。
また、歯の咬み合わせの大切さを、患者さんにお伝えすることは、簡単なことではなく、常に機能面と共に審美面の両方の側面から同時に求められますが、こちらも総義歯より阿部晴彦先生から、顎関節の大切さより小出馨先生から、お教えいただくことができました。
幸せな出会いに恵まれ、心からありがたく思っております。
一般的には歯の病気というと、虫歯(う蝕)と歯周病が2大疾患とされています。
私の場合、今もずっと大切にしている歯周病学に初めて出会ったのは、母校である奥羽大学歯学部の学生で2年生のときでした。
少し、その辺のことも思い起こしてみます。
本格的な授業は4年生から始まるカリキュラムでしたが、こんな授業が2年後に始まりますよ、という歯周病学の紹介する授業を受けたことがきっかけで、その歯周病学にすごく興味が出てしまい、専門の本を読み始めることになりました。
ただ、その授業をされた先生が、勧めて下さった本が何故か、日本語の本ではなく、英語で書かれたいわゆる原著でした。
今考えると、多くの学生は日本語で書かれた歯周病学の教科書的な本を読むのが普通です。
ただ、当時は目の前にあった英語で書かれた本を読むことしか、頭に浮かばず、また、たまたま英語が好きだったこともあり、迷うこともなくそのまま読み始めていました。
おかげでいつもその本のことばかり考えるようになってしまい、楽しくて、2年生の退屈な(?)授業は上の空でした。

3年生になって、偶然にも1冊の本の紹介していただく機会がありました。
これがまた歯周病学の本でした。
こちらは当然のことながら、日本語で書かれていました。
あっという間に読み終わったのですが、水が流れてきて、そのまま染み込んでいくような、不思議な感じでした
。実は、2年生の時に読んでいた本はアメリカのグリックマン先生のもので、次に出会った本はスウェーデンのリンデ先生のものでした。
訳された先生は岡本浩というお名前が書かれていました。
リンデ先生の本を何回も読んでいると、秋になり、訳者であった岡本先生が自分の大学の教授として来られると聞かされ、かなりびっくりしました。
そして岡本先生の教授就任の記念講演がありました。
全国から、多くの先生方が集まっておられましたが、学生もその場に行っても良かったので(といっても、本を紹介して下さった鈴木陽典先生と学生は、私とその2人だけでしたが・・・)、ふらふらと行って見たら、なんとリンデ先生がお話されていました。
結局、4年生になって岡本教授の歯周病学の講義を受ける学生の1期生になっていました。
その時に、当然学生は教科書を購入するのですが、私の本は妙に新しくなく、かなり読み慣れたリンデ先生の本でした。
何度も読んでいた本が教科書になるとは、なんとも愉快な感じでした。
不思議な出会いでした。

6年生になり、学部の卒業も押し迫ってきた頃でしたが、鈴木先生に、“歯周病学がそんなに好きなら、大学院生になりなさい。
”と突然言われ、そういう進路もあることを知りました。
そのまま、運よく岡本先生の教室の院生にさせていただけました。
また当時、講師であられた三辺正人先生に犬は好きかい、と聞かれ、大好きです。
と言ったことから、ビーグル犬を使った歯周組織の再生に関する研究が始まりました。
毎回20編近くのジャーナルの論文を、図書館から探して読むことからのスタートでした。
聞いたこともないジャーナルの何年の何月号の何ページから何ページまでと、大変達筆な鉛筆の走り書きのメモを片手に、普通の本棚に並んでいる本しか読んだことのなかった図書館に通いました。
図書館には、手続きをすると、別のエリアに行くことができました。
体育館のような大変広い別室があり、そこには何十年も前からの世界中の専門ジャーナルが、蔵書としてストックされていることを初めて教えていただきました。
それはもうとんでもない本の数でした。
ボタンを押すと、見上げる高さの本棚が動きます。
またボタンを押すと止まり、その中から、ようやくメモに書かれたジャーナルにたどり着きます。
記されたページを開くと、当然のごとく、目指す論文はありました。
何も見ずに、さらさらっと毎回20数編の論文の選択をされる三辺先生の頭の中はどうなっているのかが、当時の私の一番びっくりしていたことでした。
たまには間違いもあるはず・・・と思っていましたが、結局ただの一度もなかったのです。
私はただひたすら、読んでいました。
当然のことながら全部、英語でした。
三辺先生は日本におられましたが、頭の中はいつも世界中を飛び回っておられ、世間で起こっていることには無関心で、楽しかったです。
途中、“これは横須賀へ行って勉強してこい。
”と何回も言われ、先生の母校の神奈川歯科大学に通いました。
ここがまた素敵な大学で、スタッフの方々も、また横須賀の街も気に入ってしまいました。
当時、講師をなさっていた児玉利朗先生は文字通りのゴットハンドで、あんなに小さなマウスの頭蓋骨をさっと開けて、さっとメンブレンを入れて、さっと閉じてしまう、とんでもなく素敵な先生との出会いにも恵まれました。
この世の中にこんな素晴らしい指の動きがあって、すべてのオペ操作がアートというか、芸術的に思えたことは初めてでした。
後になりますが、お二人とも2014年に母校の教授になられました。
なるべくしてなられたお二人ですが、そのお二人を選ばれた神奈川歯科大学の先生方はまた最高に素晴らしいなと、とても嬉しく思いました。
(私事となりますが、自分の息子が神奈川歯科大学の学生となっているのも、ごくごく自然の流れのようで楽しく思えます。)

話は少し変わります。

院生時代の3年目になっていましたが、ある朝の新聞記事を見て市立体育館に行きました。
超音波で物の硬さがわかるということが書かれてあり、妻と二人で向かった先で当時、日本大学工学部電気工学科の助教授でおられた尾股定夫先生とお会いすることができました。
福島県立医大、スタンフォード大学とともに、長年にわたって開発されて来た触覚センサーを用いて、乳がんの研究をなさっておられました。
3次元でがんの位置を術前に決めることができるお話をお聞きし、歯周病でダメージを受けた歯周組織とその健康な状態との差も、明確に数値で示すことができますか、と質問したところ、明日にでも日大の先生の教室に来て、もっと歯周病のことを説明しなさいということになってしまいました。
日大の工学部は何故か郡山にありました。
不思議な出会いでしたが、その尾股先生の教室では、4年生が卒業論文に先生から指定されたテーマをいただき、必要な電気回路を基盤に学生さんが制作して、懸命にデータを取って、それらをPCで計算させ、論文をまとめていくこととなっていました。
PCが元々は計算機であったということを改めて確認することができました。
何十台ものPCがただ計算するために、24時間のフル稼働です。
人が寝ている間にもPCは健気に働きます。
凄まじい世界を見させていただけました。
私の場合、たまたま小学生の頃、アマチュア無線に夢中になって、キットで組み立てる小さなラジオや送信機とかを作っていたことが役に立ちました。
半田付けを上手にする歯科医師はあまりいないらしく、尾股先生の指示をいただき、4年生と一緒になって基本回路を作って実験していくようになっていました。
その頃は夕方の5時まで母校で院生の仕事をして、その後に日大へ伺う毎日でした。
夜中の1時くらいに、賑わう研究室から帰宅して、また朝に母校へとハードでしたが、楽しい時間となりました。
実際のところ、どちらの学生か、よくわからなくなっていました。
日大でもその2年目には、新しく入って来た4年生には、日大の大学院生と勘違いされていました。
よくも飲み会もあり、楽しかったです。

少し話は歯周組織の再生の研究に戻ります。

母校では、顎骨を時間差で蛍光染色した歯周組織の再生状態を、時系列で分析する必要があったため、病理学の教室に伺っていました。
その時の切片作りと顕微鏡での観察がすごく楽しかったです。
チタン製のインプラントを含めた切片を作るのは、大変硬くて技術的に困難でしたが、神奈川歯科大学でしっかりと教わって切り抜けることができました。
歯、インプラントを支える骨ができていく様子を切片レベルで実際に確認できる貴重な時間をいただけました。
岡本教授、三辺先生の厳しく楽しい指導を受けて、学術論文をまとめさせていただく機会もいただき、日本歯周病学会、日本歯科インプラント学会、日本保存歯科学会などの学会でも発表させていただきました。
それらをしっかりとまとめ上げて私の大学院生としての修了論文にするはずでありましたが、偶然出会ってしまった尾股先生との研究が、楽しくなってしまい、残る期間でまとまることについては、何のメドもなく、どうなるかは全くわからないテーマながら、超音波を用いた触覚センサーを歯科用に開発して、歯周組織の診査応用への可能性を探っていくことが、最終的な私の論文テーマとなりました。
こんな私のわがままをよく岡本教授も三辺先生も認めて下さったことと今更ながらに深く感謝しております。
一番びっくりされていたのは、尾股先生だったかもしれません。
歯科の学会だけではなく、工学科系の電気学会、センサー学会、ME(medical electoronics)学会等でも、尾股先生とご一緒させていただき、発表もさせていただくこともできました。
上記の工学系の学会では、やはり先進的な取り組みが多く発表されていました。
各大学、会社で熱心に開発されていて、まだ世の中に出ていない最新の診断機器やそれらの取り組みのお話を伺ったり、こちらも多くのご質問を受けたり、今後の歯科だけではなく、医科も含めて医療の進歩、発達に電気工学的なサポートは必須と思われ、大きな刺激を受けておりました。
もちろん歯科の学会でも発表でき、新しい取り組みをご評価いただくことができました。

時間が欲しいな、とよく思いました。
ただ、締め切りがあることが、良いのかもしれないね、とも、よく思いました。
同期の院生が論文のまとめに入っている頃も、私の場合は、新しいデータの収集や回路の修正をしていました。
ここまではどうしてもやりたいし、やらないと後悔するのが、目に見えたので、次々に思い浮かぶ課題を自分なりに整理して、取り組んでおりました。
結局、論文提出締切りの日のその時間が来ても、論文の製本作業をしている始末で、時間を特別に伸ばしていただいた記憶がかすかに残っています。
教授会での審査が始まった頃は、なにやら燃え尽きたような感じで、ぼんやりとしていました。
審査に当たられた教授の皆様からのご指導は、厳しかったものの、全てが的確でありがたく思いました。
また目が覚めたような感じになり、ここからが大事なところと、多くのご意見をいただきながら、どんどん論文の趣旨がより明確になっていきました。
やりたいことを欲張りすぎたために、しっかりと整理ができていなかったようでした。
内容については、逆に褒めていただくことが多く、びっくりしておりました。
最終審査までの回数が、また飛び抜けて多く、同期のなかでは本当に最後の最後になりましたが、一緒に卒業式に参加することもできました。
幼稚園にもまだ行ってもいない小さな息子が、式で何やら私を呼んでいたのが聞こえ、嬉しくもあり、ちょっぴり恥ずかしくもありました。
妻もいて、子供もいる院生というのも、あまりいなかったので。

お世話になった尾股定夫先生もまた、その後、日本大学工学部電気工学科の教授となられ、最近、ご定年にてご退職されましたが、その後もサイバーダインという素晴らしい会社にてロボット工学のお仕事にてご活躍中でおられます。

サイバーダイン社

咬合という永遠のテーマについて

歯周病にダメージを受けた歯も、最終的には咬むことができなければ、意味がありません。
咬みあわせのことを我々は咬合(こうごう)と呼んでいます。
この咬合の基本は、なんと、歯がないときに使う総義歯を学ぶことにあります。
不思議なことに、歯があっても、なくても咬み合わせの勉強はできるのでした。
こちらについては、前述の通り、阿部晴彦先生から教えていただくことができました。
東京の三鷹市で開かれていた講習会に何度も通わせていただきました。もう40年近く開かれた講習会のOBは全国におられ、何回か開かれた阿部先生の出版記念partyでは、ご自分のことを挨拶されるときに、“まだまだ、ハナ垂れ小僧なので・・・”とおっしゃるため、未だに引退できない弟子の先生の皆さんは、“師匠が引退されないからなあ”と、いつも嘆いておられます。
それくらい、お元気でみんなにとっても、やはり嬉しい限りです。

日本歯科大学新潟校で補綴学の教授でおられる小出馨先生(当時は助教授でおられました。)の講習会へも通うことができました。
顎の動きを触診して診査診断していくことのインパクトは未だに新鮮で忘れられません。
とんでもなく多くの研究に支えられた咬合理論のお考え方から、パーシャルミリング、リンガライズドオクルージョンへのお話が広がっていくことは、むしろすごく自然に思われました。
多くの論文をいくら拝見しても、全く飽きることなく、むしろ頭の中がすっきりとしていくことがすごく新鮮でした。洗脳、というのはあのようなことかもしれません。
素晴らしい先生にお会いでき、教授となられ、より多くの方々が指導を受けることができることほど、素敵なことはありません。

モートン アムステルダム先生

モートンアムステルダム先生

随分前のことなのですが、先生の東京のご講演を幸運にも伺うことができました。
30、40年にわたる長期の歯周補綴症例を次々に当たり前のように見せていただき、世の中には、こんなに素晴らしい先生がいるんだなあと、半分呆れかえっていましたが、その数年後、ボストンで先生のお姿を拝見することができました。
各国の著名な先生方が、インプラントを使用して難症例を素晴らしい技術で治療されている発表があったセッションの最後にお話がありました。
その中で、改めてでしたが、安易にインプラント治療に移ってしまう傾向に対して、警鐘されるお話があったことが強く印象に残っています。
東京で、見せていただいた多くの症例も、考えてみれば、インプラントは1本も使用されてなかったのでした。
ボストンの会場におられた先生方は、アムステルダム先生が頑張っておられた時代(当初は信頼できる現在のスタイルのインプラントそのものが存在していなかった。)のこともわかっておられる方々ばかりです。
当然、先生はインプラント治療の否定は全くされていませんでした。
むしろその素晴らしさを賞賛されておられました。
それ故に、あえて、あのセッションの最後にアムステルダム先生のお話があった意味を我々は忘れてはいけないと強く思いました。

ブローネマルク先生

ブローネマルク先生

今日では当たり前のように、インプラント治療が日本でもなされるようになっています。
メーカーも多くなり、なにやら競い合っているように思えてなりません。
言うまでもなく、現在のチタンベースとなっているインプラントの全ての礎は、先日亡くなられたブローネマルク先生のご努力によって生み出されたものであると、世界中の先生方がお認めのところと存じます。
インプラント治療において、ブローネマルク先生が当初から大事にされておられたこと、そしてそこから導かれた教えは、その全てが今日でも全く色褪せることない、宝石のようなお言葉ばかりのように思えます。
時代が流れ、新しい発見があり、どんどん改良もなされていきますが、永遠に変わることがない、変えようのない教え、というものの存在を忘れてはならないと思っております。
ブローネマルク先生のお考えは、いつまでも多くの先生方に大切にしていただかなければならないものと強く信じております。

インプラントについて

私は1995年、リンデ先生と小宮山彌太郎先生がスウェーデン大使館(ブローネマルク先生もリンデ先生も、スウェーデンの先生でおられます)にて2回に分けてでしたが、4日に渡る講習会を受けるができ、ノーベルファルマ社(現在のノーベルバイアケア社)のsatificateをいただきました。
当時はインプラントフィクスチャー本体もそうでしたが、必要な専用の機材の全てを購入するにも、satificateがないと不可能な時代でした。
そんなときでしたので、各大学でさえも、なかなかインプラント教育に踏み出すことをできない中、大学の先輩で福島市に開業されていた三宅一正先生が、ブローネマルク先生のインプラントを使用して頑張って治療をされておられることをお聞きして、すごい先輩がおられるんだなあと思っていました。
そうしていたところ、その三宅先生から急に“バイトに来い。”
という話があり、院生の2年生くらいから、週1回でしたが、お邪魔することになりました。
その時は、この後にインプラントを含めた臨床治療の全てを教えていただくことになるとは、夢にも思っていませんでした。
院生終了後は、結局、家族で福島市に引っ越し、長期に渡ってご厄介になりました。

インプラントの治療については、“お前のポジションは小宮山先生に似ているなあ。”
といつもでしたが、またそれを何度も飽きずにおっしゃられることを嬉しく思っておりました。
当時から、患者さんには医科のCT撮影のため、ご協力いただいていた病院にご足労していただき、得られたデータから3次元の解析をするソフトを用いて、安全で確実性のあるインプラント治療を目指して、医院全体で努力しておりました。
が、院長先生は少し違っておられ、ギリギリのラインでも、患者さんの外科的な負担が最小限になる部位へインプラントできるピンポイントを懸命に探しておられました。
それは、珍しいことではなく、いつものことでした。
常に患者さんのサイドに立たれ、最大限の努力をしておられたということを、治療の補助をさせていただきながら、教えていただけたことは本当に幸せな時間をいただけたと思っております。
あれから、少し時間が経ちました。
自院にも高精度な歯科用のCTが入り、以前とは異なる良い環境下で、よりレベルを高めて診査できる時代になってまいりました。
インプラント治療を含めて、今日の歯科治療は日進月歩です。
診査機器の進歩は、そのまま診断レベルの向上へ繋がっていきます。
治療機器、使用可能な薬剤の進歩も相まって、治療結果も当然のことながら、良くなってきます。
極端に言えば、昨日まで不可能であったことも、今日はできてしまう感じです。
また、できていたことの精度も、びっくりするほど上がってきます。
正確さを保ちつつスピードも上がってきます。
そういう時代のようです。自己満足と思えてなりませんが、昨日より今日の方が、かなり良い感じになっているように思えることをよく感じます。
ただ、繰り返しになってはしまいますが、いくら時代が移り、変わっていっても、やはり、変えようのない大切にすべきところだけは、常に強く意識していきたく思っております。

残念ながら、三宅一正先生は亡くなられましたが、その後を引き継ぎ、後輩へ繋いでいく仕事までは、なんとかさせていただけたように思います。
東日本大震災を経て、福島も活気が戻ってきています。
ようやく3人のお子様も素敵な歯科医師となられ、ご長男から戻って来られていることを、大変嬉しく思っております。

ミクロン単位のフルオーダーである歯科技工物という作品について

残念ながら、歯を失うことになられた患者さんも、適切な歯科治療を受けていただければ、また楽しく食事ができ、お話もでき、大きくお口を開いて、なんの遠慮もなく歯を見せてスマイルすることができるようになります。
そのためには、私たちが患者さん個人のお口の中の状態をしっかりと把握しなければなりません。
精度の高い型取りと、その患者さんに適応した咬み合わせの位置をしっかりとつかむことが重要になってきますが、それらの情報を元に歯科技工士の皆さんがどれだけ精度を高めたフルオーダーの歯科技工物を作ってくださるかが、その後の大切なポイントとなっていきます。
双方の技術力が融合した一つの作品となります。
これは完全にチームの仕事なのです。
私たちのできる最大限の努力は、そのまま歯科技工士さんにしていただける仕事のレベルの向上と直結します。
最終的には患者さんが判断されます。“治療を受けて良かった。”
と思っていただければ、我々のチームの仕事はとりあえず、成功したことになります。
術前、術中の状態と術後の状態を、写真に収めて、最後には比較して患者さんにも見ていただきますが、実は、自分達のチームでの検討にも大きく役立てております。
最終的にセットさせていただくものに、少しでも良いもの作りのために反映していくよう検討しながら、完成させていきます。当院は院外の二つの信頼できる歯科技工所の素晴らしい技術的なお力のご協力をいただきながら、最高のチームとして、常に良い仕事ができるように、頑張っております。
(実は、出来上がった作品を患者の皆さんのお口の中にセットさせていただいたその後が大切だと思っております。それ故に、セットは終わりではなく、新しい始まりにもなります。むしろその後がまた大切なのです。長期に渡ってその後の状態を良好に維持していくことでのお付き合いが始まります。)
株式会社isotope
有限会社酒井歯科技工所
こちらの歯科技工の世界もデジタル的な技術の進歩が目覚ましく、ここ数年は特に楽しい時代となってきています。
材料、機材的なハード面もソフト面も大変なスピードで革新的な発展が起こっています。

シロナ セレック、ジルコニア

今後の私たちの診療は、匠という言葉がありますが、とんでもなくアナログ的なことでの精度をより高めながら、日々進歩していく薬剤及び歯科材料と発展していくデジタル的な機器の力をフル活用することにより、結果として患者の皆さんに、より高いレベルの治療を提供できる時代になって行く、そんなことができるように思っております。
私どもも患者の皆さんも楽しみですね。

シロナ